インタビュー
2019年11月11日

バドミントンは遊びのようなもの。サッカーを習いたくてもダメと言われて……。バドミントン元日本代表・池田信太郎(前編)|子どもの頃こんな習い事してました #27 (1/2)

 スポーツ界の第一線で活躍しているアスリートに、幼少期の習い事について訊く連載。自身の経験を振り返っていただき、当時の習い事がどのようにその後のプレーに活かされたか、今の自分にどう影響しているかを伺います。

 第27回は、2008年北京オリンピック、2012年ロンドンオリンピックに出場した元バドミントン選手の池田信太郎さん。遊びの感覚で幼少期からバドミントンに親しみ、小学生のときは九州大会3位という腕前に。毎日のようにバドミントンをしていたという子どものころの思い出について伺いました。

スイミングを習っていた記憶がなんとなくあるけれど

――5歳からバドミントンを始めたと聞きました。

はい。父が地域でバドミントンクラブを運営していたので、母が父を迎えに行くときに一緒についていって、そこで遊んでいるうちに始めました。5歳からですね。自我が目覚めてから「この習い事をする」と自分で選んだのではなく、気付いたらやっていた、遊んでいたものを継続したという感覚です。

――他に習い事はしていましたか。

スポーツ系では、スイミングを習いました。小学1、2年のころだったかな。全然記憶にない。おもしろかったかどうかの記憶すらなく、「クロールを習ったなあ」という程度。泳ぎは得意ではなかったですが、まあまあ泳げる。大学時代には千葉県・館山の海で2時間の遠泳が必修となっていて、みんなでバディを組んで、1日目は30分、2日目は1時間、3日目2時間と泳ぎきりました。

――小学生に人気のサッカーや野球は?

小学3年生のときにJリーグがスタートしたこともあり、友だちから地域のサッカークラブに誘われて入りたかったのですが、親に相談したら断られました。「サッカー習いたい。バドミントンもやるけど、週1回サッカーに行ってもいい?」と聞いたら、「ダメだよ。バドミントンだけやれ」と一蹴。親は覚えていないようですが、子どもってそういうことをはっきり覚えていますよね。スポーツ以外は、小学5年から中学2年まで塾に行っていた記憶があります。

――水泳の経験はバドミントンに役立ったでしょうか。

役立ったという感覚はまったくないですね。なにしろ水泳の記憶がほとんどないので。

子どものころの夢は「警察官」だった

――1週間、どのようなスケジュールでしたか。

バドミントンが週6日。ほぼ毎日に近いくらい練習していましたが、小学校のときは「練習」とは思っていませんでした。習うというよりも、同級や年上のお兄ちゃんたちと一緒に遊びの延長線上で楽しんでいたというか。バドミントンがコミュニケーションツールのひとつだったように思います。

地元の福岡県遠賀郡岡垣町はバドミントンが非常に盛んで、クラブが4つほどあり、町の大会でもレベルが高くて、インターハイで優勝する選手や地元を離れてバドミントンの強豪校に進学する選手も多いんです。当時、父のバドミントンクラブにも子どもが小学1年から中学生まで幅広く100人くらい在籍していて、曜日違いで入れ替わり練習があり、環境として続けやすかった。それに父親が監督をしていたので途中で辞めるという選択肢はなかったですね。

――お父さんはバドミントン選手だったのでしょうか。

いえ、父は社会人になってからバドミントンを始めて地元にクラブを作り、子どもたちに教えていました。事業として運営しているのではなく、月謝は教室の賃料やシャトル代などの実費程度で、ほぼボランティア。仕事が終わった後や週末に教えていたんです。今は仕事は引退したので、クラブに専念しています。いつかオリンピック選手を出したいという思いでたくさんの子どもたちを育ててきて、まさか自分の息子が第1号になるとは驚いていましたね。岡垣町からオリンピック選手が出たのはまだ僕だけです。

――小学校のころからオリンピック選手をめざしていたのですか。

オリンピックを意識するようになったのは23歳くらいのとき。そもそもバドミントンがオリンピックの正式種目になったのは、僕が12歳のとき(1992年バルセロナオリンピック)で、小学校のころはバドミントンでオリンピックなんてまったく考えていませんでした。

当時小学生は全国大会がなかったんですが、九州大会では優勝できず3位。中学生になると僕のレベルが落ちてなかなか勝てなくなって。バドミントンの推薦で進学した高校でインターハイ3位まで盛り返し、筑波大学に進学しました。

そのときもまだオリンピックを意識するようなレベルではなかったので、まずは強い選手にひとつひとつ勝っていこうという気持ちでした。まして、プロ選手もいなかったので(池田さんが日本バドミントン界初のプロ選手)、バドミントンを仕事にしていこうとはまったく思ってなかったですね。

――では、子どものころの夢は?

小学4年生のときの文集では「警察官」と書いていますが、特に強い思いがあったというわけではありません。将来何になりたいということよりも、「インターハイで優勝」といった目の前の目標に対して一生懸命取り組むことばかり考えていました。勝てば道は自然と開けていくだろう、なんとかなるだろう、と。

性格的にも楽観的なほうで、だいたいのことは「なんとかなる」と思う。大学を卒業してオリンピックを目標とするようになってから、「なんとかなる」から、「なんとかしなければいけない」「なんとかする」に大きく変わりました。

親から「練習しなさい」と言われると反発してしまう

――中学までお父さんが指導されていた?

そうですね。中学まで父にバドミントンを教わっていましたが、どちらかというと技術的なことよりも、「目標に向かって努力しなさい」など取り組む姿勢を厳しく注意されました。小学校のころはそこまで努力しなくてもそこそこ勝てていたんですね。バドミントンは道具を使うので技術的な要素が必要なんです。だから、幼少期から経験しているほうが強い。

もともと僕は運動能力は高くない。走るのも速くないし、小学校のマラソン大会でもスタートの時は一番だけど、後半は最後から数えたほうが早いくらい。だけど、道具を使う競技や球技は得意。バドミントン、テニス、卓球、バスケ、バレーボール、サッカーは器用にできていました。

1 2