インタビュー
2019年9月26日

走り幅跳びで東京都大会に。でも夢はずっとサッカーか野球の選手でした。元プロ野球選手・森本稀哲(後編)│子どもの頃こんな習い事してました #25 (1/3)

 スポーツ界の第一線で活躍しているアスリートに、幼少期の習い事について訊く連載。自身の経験を振り返っていただき、当時の習い事がどのようにその後のプレーに活かされたか、今の自分にどう影響しているかを伺います。

 小学4年生のときにサッカーから軟式野球に転向し、みるみる頭角を現した森本稀哲さん。子どもの頃の夢や、現在、2人のお子さんのお父さんとして子どもの習い事をどのように考えているか伺いました。

前編:そろばん、テコンドー、習字。毎日いやいや習い事、サッカーだけ楽しく通っていました。元プロ野球選手・森本稀哲(前編)

野球を辞めたいと思ったことは高校のときに2回

――テコンドーやサッカーなどさまざまな競技で期待されるなか野球を選んだのはなぜですか。

そういえば、中学のとき、荒川区の連合運動会の走り幅跳びでダントツで優勝して、東京都大会でも3位くらいになっちゃったこともありました。全然練習していないのに。それで東京都の強化指定選手になっちゃったんですけど、「野球が忙しくて両立はできない」と断わりました。

そのあたりはけっこう冷静に、陸上は僕のなかのイメージとしてまったくなかったし、テコンドーや水泳の選手もない。もともとメインはサッカーか野球という思いが明確にありました。将来の夢として、サッカー選手か野球選手というのはずっと思っていましたね。結果として野球になったという感じです。

――早くからプロ選手になりたいと思っていた?

サッカー選手か野球選手に「なれるものならなりたい」という思いはずっとありました。ただ、具体的な目標として考えたことはありませんでした。最初の具体的な目標としては、甲子園です。小学校のときに高校野球を見て帝京高校の強さを知って、縦縞のユニフォームがかっこいいと憧れた。中学校の時のチームからの推薦で帝京高校のセレクション(レベルを見極めるテスト)を受けさせてもらって合格しました。

――進学について親御さんに相談は?

特にしませんでした。

――甲子園は1998年、3年生の夏に主将として出場していますね。その時からプロ野球選手としての目標がはっきりと出てきたということでしょうか。

プロのことを考えるひまはありませんでした。とにかく甲子園を目指して練習して、高校最後の夏に甲子園に出場し、そのあとすぐドラフトにかかったという感じです。

――これまで野球を辞めたいと思ったことはありましたか。

高校に入って野球部に入部したばかりのときと、夏合宿のときの2回だけです。1年生は入って3ヶ月くらいはずっとランニングばかりなんです。僕は走りすぎてけがをして休み、復帰したらすぐにレギュラーメンバーに抜擢されたので、実質1ヶ月ちょっとしか走っていませんが、他の部員は3ヶ月間ずっと走っていました。その間、全然野球ができないので「なんだこれ、辞めたいな」と。

夏合宿ではノックのあまりにきつさに辞めたくなった。でも試合に出たいし、甲子園にも行きたいし、実際には辞めるという選択肢はありませんでした。とにかく、モチベーションとしては試合。公式戦はもちろん練習試合も楽しくて、そのためにはきつい練習も乗り切るしかなかった。反抗期ということもあって、親に弱音を吐くことも一切ありませんでした。

――お父さんは野球に興味なかったそうですが、お母さんは?

母は小さいころは当番もあるので、来られるときには来ていました。父はまったく来なかった。高校1年のときの甲子園予選に父が初めて来たんですけど、朝方までお店をやっていたので二日酔いの状態で来たんですね。そこで僕がホームランを打って、目が覚めたみたいです。「がんばっているんだな」と。それからは公式戦は見に来るようになりました。

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