インタビュー
2021年8月31日

座り方ひとつでガラリと変わる。車いす陸上のホープとマシン・エンジニアが上る最速への階段(前編)│わたしと相棒~パラアスリートのTOKYO2020~ (1/3)

 東京2020パラリンピックを目指すアスリートの傍らには、彼ら彼女らをサポートするヒト・モノの存在がある。双方が合わさって生まれるものとは何か。連載「わたしと相棒〜パラアスリートのTOKYO2020〜」では、両者の対話を通してパラスポーツのリアリティを探る。

 千葉県千葉市の『オーエックスエンジニアリング』には、競技用車いす製作のスペシャリストたちがいる。同社の小澤徹さんは、レース用車いす(レーサー)の製作を担当するエンジニアとして、車いす陸上のアスリートたちと向き合い続けてきた。鈴木朋樹選手(トヨタ自動車所属/T54/切断・機能障がい)も、小澤さんの作るレーサーを駆る一人だ。

(写真提供:トヨタ自動車)

 2016年のリオパラリンピックでは惜しくも代表から漏れたものの、翌年の世界選手権では800m、1500mで入賞を果たした、若手の有望株でもある。ドバイ・グランプリで400mに出場し、46秒09の日本記録をマークし勢いに乗る。短距離からフルマラソンまでカバーする鈴木選手と小澤さんに、レーサー製作の現場について伺った(初出:2018年4月)。

人生最初のマシンは“お下がり”

――鈴木選手が競技を始めたきっかけは?

鈴木:生後8ヶ月の時の交通事故が原因で車いす生活になったんですが、最初からオーエックスエンジニアリング(以下:オーエックス)の車いすに乗っていました。動きやすい車いすだったので、親が「健常者と同じようにスポーツをやった方がいいんじゃないか」と。身体を動かせる場所を探していたんですけど、近場ではなかなか見つからず、地元(千葉県館山市)から1時間半程の横浜にあるクラブチームを見学させてもらったことが陸上を始めたきっかけですね。

車いすテニスや車いすバスケができる環境も整っている中で、まずは陸上から始めたのですが、初めて行った時から所属選手の中で自分が一番速かった。小さい頃からずっと普通学級に通っていて、健常者の友達といつも遊んでいたので、筋力が鍛えられていたんじゃないかな、と。

5、6歳で陸上を始めた時は、日常生活用の車いすで競技をしていて、初めて競技用の車いすに乗ったのは8歳か9歳くらい。『横浜ラポール(障害者スポーツ文化センター横浜ラポール)』(※1)という施設にあった、上の選手のお下がりでした。それもオーエックス製。それまでも、トップアスリートがレーサーに乗って競技しているのを見てはいたんですが、実際に乗ってみると、スピード感の違いに驚きましたね。もっともっとスピードが出る気がして、本当におもしろかったのを覚えています。

――“お下がり”というと?

鈴木:横浜ラポールでは、子ども用につくった競技用車いすが代々受け継がれていくんです。身体が大きくなって乗れなくなった物を、小さい子がまた乗って。下の代に受け継いでいくようなシステムがあるんですよ。

――当時から、「ずっと陸上で行く」という思いだったのでしょうか。

鈴木:注目度は車いすバスケの方が高くて、バスケもやってみたのですが、自分があまり球技に向いていなかったというか(苦笑)。ただ、バスケの試合でも、球を獲りに行くのは誰よりも速かった。なら、がむしゃらに走り続けた方がいいんじゃないかなと思って、陸上を選びました。

初めての“オーダーメイド”は小学4年生

――初めてオーダーメイドのレーサーをつくったのは?

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