インタビュー
2017年9月6日

あのシーンが刷り込まれていたから金メダルに繋がった。柔道・野村忠宏『柔道部物語』【私のバイブル #1(後編)】 (1/2)

 前編では野村忠宏さんと『柔道部物語』(小林まこと)の出会いから、中学~高校の部活時代の話を中心に伺いました。後編では野村さんが実力をあげ、オリンピックに出場~金メダル獲得に至る頃の話なども交えて、野村さんにとっての『柔道部物語』について詳しく聞いていきます。

マンガのあのシーンを無意識に再現

前回お話いただいたとおり、弱かったけど強くなるために技を磨く自分に、主人公である三五十五(さんご・じゅうご)を重ねて練習に取り組んだ高校時代を経て、ついに大学チャンピオンになり、オリンピックの道へと続いていくことになるわけですが。

そのときから磨いていた背負投が、ようやく自分の武器、得意技になっていったのが大学時代でしたね。大学になって勝てるようになったときに自分を引き上げてくれたのは間違いなく背負投でした。

― そして1996年のアトランタオリンピック、3回戦でロシアのオジェギンと戦った際、残り15秒で劣勢だった野村さんは片襟の背負投で見事1本を奪取。その勢いで金メダルを獲得しました。

古賀(稔彦)先輩が試合でやっていたのを小林先生が取り入れたというのはあとで知ったのですが、当時それを見たときにそのシーンが単純にすごくカッコよかったんです。その影響で片襟の背負投をすごく練習したのは覚えていますが、なかなか試合で使う機会はありませんでした。それがアトランタの3回戦で、あの状況で片襟しか掴ませてもらえないとなったときに自然と出て、逆転勝利に繋がった。

あのときに具体的にそのシーンが浮かんだとかはないですけど、マンガで見たあのシーンは刷り込まれていたし、当時から影響を受けていた。だからこそあの場面で出たと思うし、それがアトランタの金メダルに、その後の3連覇に繋がっているという考え方はできると思います。

― その後シドニー、アテネと勝ち進んでいく中で、松岡修造さんは『エースをねらえ』をウインブルドンに持ち込んで試合中も読んでいたという話もありますが、野村さんはふとした拍子に『柔道部物語』を読み返すということはあったのでしょうか?

たとえば減量で風呂に入るときに湯船に浸かりながら読んでいたとかはありますけど、ちょうどマンガを読まなくなる年齢に差し掛かっていたので、自然と読む機会も減りましたよね。その頃はむしろアップとか練習以外の時間に、柔道のことを考えたくなかったんですよ。試合は究極の恐怖とプレッシャーと向き合うので、バラエティ番組をテレビで見たり、いかに柔道のことを考えないかの方に腐心していましたね。

プレッシャーに向き合う気持ち

― 現役時代のプレッシャーはそれくらいすさまじいものだったと。

シドニーで辞めようかなと思って2年間休んだのもまさにそこでした。シドニーを終えてまた4年間そのプレッシャーと向き合って、それでも出場できるかわからないし、負ける姿を見られたくない恐怖感もありました。だからこそ辞めようと思ったんですけど、それでもまだ続けたい自分がいて……。結局2年休んでまた復帰することになったのですが、正直、今でもあの瞬間には帰りたくないというくらい苦しかったんです。

やっぱり復帰直後は注目されるし、それでも勝てなかったし、そうすると周囲の目も冷ややかなものになり、自分にも自信やプライドがあったのに、勝ち方すらわからなくなって。そのとき、どん底の中で初めて円形脱毛症になりました。

― 三五はプレッシャーで眉毛が円形脱毛症になるという特徴がありましたが、野村さんの場合はプレッシャーではなく……。

自分が惨めで、苦しすぎてですね。でもそこから逃げることはしなかったです。周りはみんな諦めていたけど、自分だけは逃げちゃいけない、変われると思って、どこかで自分を信じて、期待して。そこで逃げなかったから3連覇という結果に繋がったし、その苦しみの中で経験してきたことは、自分の財産になりました。

― アテネ後も怪我などに苦しみながら、2015年まで現役生活を続けられました。その原動力というのはどんなものだったのでしょうか?

1 2