2018年11月11日

46歳、現役パラアスリートのいま。東京2020で叶える4大会連続出場 (1/2)

 国内で関心が高まりつつあるパラスポーツ。数多くの競技種目があり、世界で活躍する日本人選手も少なくありません。しかし、まだまだ世の中に浸透しているとはいいがたく、競技を行ううえでは課題もあることでしょう。

 そこで今回は、2008年北京、2012年ロンドン、2016年リオと3大会連続でパラリンピックの車いす陸上に出場し、世界パラ陸上競技選手権大会ロンドン2017では日本代表の主将を務めるなど、日本のパラアスリート界をけん引している松永仁志選手に、出場すれば4大会連続となる東京2020、これまでの自身のキャリア、そしてパラスポーツの現状と未来などについて話を聞きました。

本気になれなかった自分の気持ちに火をつけてくれた出来事

 高校2年生の頃、交通事故によって障害を抱えることとなった松永選手。もともと陸上競技選手だったそうですが、最初はまったく異なる競技にも取り組んだと語ります。

「事故の後は、リハビリなど復帰までかなり時間を要しました。それ以前から陸上に取り組んではいたものの、すぐにパラ陸上選手としての道を歩んだわけではありません。最初は、車いすバスケとマラソンに取り組みました」

 幼少の頃からスポーツは得意だったという松永選手。どんな競技でも、少しやってみるとある程度はできるようになったのだとか。しかしその反面、何かを代表するようなレベルには至らず、むしろ自身もそれを目指してこなかったのだそう。

「代表レベルになるためには、本当の努力が必要だと思います。それを、私は避けてきました。努力して負けたらカッコ悪いとか、そういう気持ちがあったんです。これはパラスポーツでも変わらず、20代後半には岡山県内で1~2番になったものの、それ以上は別世界だと思っていました」

 競技には取り組みながらも、なんとなく充実しない毎日。その理由は自身でも分かっており、本気で全力を出して取り組んでいるものがなかったから。事故によって、人生から華やかさが失われてしまったのです。取り組んできたパラスポーツも、やはり松永選手を本気にさせることはできなかったのだと言います。しかし、そんな気持ちに火をつける出来事が起きたのでした。

「20代後半から陸上競技にシフトして、2000年のシドニー選考レースに挑戦したときのこと。当然ながらまったく勝負にならず、代表とのレベルの違いを痛感しました。その後、シドニーではじめてオリンピック・パラリンピックを真剣に見たんですよ。映像を入手したり、自分なりに調べたりしながら。何万人という歓声の中で、あのとき一緒に走った選手たちが競技している。その姿を見たら、なんだか人生を掛けるだけの価値を感じたんですよね。このことをキッカケに、本気でやってみようと決意しました」

 それまで自己流だった練習は、大分県まで通って当時の日本代表コーチから指導を受けることに。週末は大分県、その他は地元で練習という日々が始まりました。遠方ではありますが、パラスポーツは指導者の存在も、まだまだ少ないということでしょう。

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