インタビュー
2018年8月13日

クラッシックコンサートに行き、知らない世界を知ったこともキャプテンとしての糧になっている。ラグビー元日本代表・廣瀬俊朗(後編)│子どもの頃こんな習い事してました #16 (1/3)

 スポーツ界の第一線で活躍していたアスリートに、幼少期の習い事について訊く連載。自身の経験を振り返っていただき、当時の習い事がどのようにその後のプレーに活かされたか、今の自分にどう影響しているかを伺います。

 高校、大学、東芝、日本代表とキャプテンを務め、チームを導いてきたラグビー元日本代表の廣瀬俊朗さん。子どものころ習っていたバイオリンや親しんできたクラッシック音楽は、選手生活にどのように役立ったでしょうか。

前編:バイオリンを小1から習い、放課後はサッカー。ラグビーよりサッカーの時間のほうが長かった。ラグビー元日本代表・廣瀬俊朗(前編)

子どもではなく対等に扱ってくれたことがうれしかった

――子どものころの夢は、やはりラグビー選手ですか。

小学校の卒業文集には「ラグビー選手」と書いてましたね。このあいだ見返して「そうやったんや」と。ラグビー好きだったので憧れはありましたけど、ほんまにそうやって書いてたんやなと思って。書くほどでもなかったんかなと思ってたんですけど。

――お父さんは体育の先生とのことですが、ラグビーについて「こういう練習したらいいよ」などといったアドバイスはありましたか。

あんまり言われたことないですね。「靴をちゃんと履け、かかと踏んだらダメ」くらいですかね。ラグビースクールは車でないと行けないところにあったので、毎週両親どちらかが送り迎えをしてくれていました。2歳下の弟もラグビーを習っていたので、休みの日は、父親と3人でたまに公園に行ってボール蹴ったりということもありましたね。弟も大学までラグビーをしていて、今はフレンチレストランでシェフをしています。

――高校、大学、東芝、日本代表とキャプテンを務めています。子どものころに、将来キャプテンになるような教育といったものを受けていたのでしょうか。

特別に何か教えられたわけではないですけど、今振り返ってよかったなと思うのは、子どもというよりも一人の人間として対等に扱ってくれたことですね。何か発言したときも「それもいいね」と言ってくれたり、意見を聞かれたり、自分に決めさせてくれたり。子ども心に「認められている」と思ってうれしかった。

また、母親が自分のピアノ教室の生徒たちを集めて小さなコンサートを開いていたんですが、そうやって自営で独自に働いている母親の姿を間近に見られたのもよかったと思います。母親はオーケストラのコンサートを観に行くのが好きで、僕もよく一緒に行っていました。わからないので半分くらい寝ていたんですけど(笑)、感性を磨いて「こういう世界がある」ということを知ることができたのはいい教育やったんかなと思いますね。

何をするにしても自分で考えて行動することが大事。でも、いきなり「考えろ」と言われてもできないと思うので、子どものころからそういったいろいろな刺激に触れる積み重ねがあったことは、あとで役に立ったと思います。

――自立した子どもだったんですね。

母親に言わせるとどうかわからないですけど、わりと母方の家系がそういう、自分を持っているタイプなんかなと思います。母方のおじいちゃんが大阪の船場(せんば)で問屋をしていたんです。いわゆるサラリーマンの家系ではない。

そのおじいちゃんはおもしろい人なんですよ。孫の僕らが遊びに行ったら、ふつうは「かわいい、かわいい」と喜んでくれると思うんですけど、「お、来たか」という感じで関係なく新聞を読んでいるような人なんですね。それはそれで僕はいいなと思ったんです。「彼なりの生き方があるんやな、その生き方でいいんやな」と。そのおじいちゃんの娘である母親はピアノの先生、母親の妹も先生をしています。そういうおかんの家系の影響が大きいかもしれないですね。

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