インタビュー
2017年10月25日

ケガとの戦いの中で見つけた信念の貫き方。水尾嘉孝氏(前編)【元プロアスリートに学ぶ、ビジネスの決断力 #4】 (1/2)

 プロ野球界へ入るための登竜門、ドラフト会議。そこで1位指名を受けることは、選手として大きな期待をかけられている証拠です。1990年のドラフト1位で、ピッチャーとして横浜大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)に入団した水尾嘉孝氏もその1人。

 しかし、度重なるケガに悩まされ、2006年に早くも引退。現在は、なんと自由が丘のイタリアンレストラン「Torattoria Giocatore(トラットリア・ジョカトーレ)」のオーナーシェフとして料理の腕をふるっています。

 前編では、高校野球からプロ野球へと、スポーツの世界で生き残るためのさまざまな決断についてお訊きします。

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甲子園の夢を潰した1球への大きな悔い

― 出身の明徳義塾高校は高校野球の強豪校ですね。

 全寮制で、生活も野球の練習もものすごく厳しいものでした。特に監督の言うことは絶対です。当時の僕は体重が58kgしかなく、ボールが遅かったので、監督に「お前は変化球だけで勝負しろ。真っ直ぐでいくな」と無茶を言われて。監督は強くしてやろうという思いだったのでしょうが、自分としては納得しないまま、言う通りにやっていました。

― 高校時代で印象に残っていることは。

 高校3年の最後の夏です。県大会決勝の9回ツーアウト。最後のバッターに投げた球がインコース高めに行ってしまい、逆転サヨナラホームランを打たれました。意図しない球をなんとなく投げてしまい、それでチームが甲子園に行けなくなってしまった。もうすべて、僕が迷いながらも人に言われたままやってしまう、弱い心で臨んだ結果だととても悔やみました。

― その後、福井工業大学に入学し、1990年の日米大学野球で活躍したことで、当時の横浜大洋ホエールズからドラフト1位の指名を受けました。

 本当は、社会人野球で企業に入るのがいいと思っていたんです。まあ、周囲や大学の監督の意向とかいろんな想いがありまして、プロに行くことにしたのです。ただ、野球のレベルが上がってくると、周りの方が応援や支援をしてくれるようになり、簡単に辞めるという選択肢はなくなります。やり続けるしかない。選択肢がないことに疑問を持ったりもしましたが、仲間もいるし、野球自体は楽しかったです。

プロ野球の世界でいかにして自分を貫き通すか

― プロ野球界に入って一番驚いたことは。

 僕が持っていたプロのイメージは、1人1人が自分を高めるためにしっかり考えて行動し、最高のチームを作り上げるプロジェクト型のチームだったのですが、すべて上から管理されていて驚きました。練習メニュー1つ、自分で決められない。すべてトレーニングコーチの指示通りにやれ。「これで上手くなりますか?」って聞いたら、うるさい! と言われる。

― まるで高校野球みたいですね(笑)

 まあ、当時の横浜がそういう体質だったんですね。今でこそGMとかがいますが、監督が全権を握っていた時代は、監督が「神」。監督が歩いていたら横を歩いてはいけないぐらいでしたから。今はそんなことやっているチームはないと思いますけど(笑)。

 その後、故障が続いていたときに、監督からピッチングフォームをサイドスローに変えるよう命令されました。だいたいの選手は首脳陣ともめても、「もめても得はないんだから折れなさい」と周囲から言われて謝罪するのですが、僕はどうしても納得できなくて、言うことを聞きませんでした。すると、トレードに出されてしまった。

― 結局、1994年にオリックス・ブルーウェーブへ移籍されます。

 普通は「トレードに出される=失格」というイメージでしょうが、僕からしたら「もう1回チャンスがもらえた」と内心思ってました。実際、仰木彬監督に会ったことが僕の転機でしたね。今までとあまりに違うやり方に驚きました。仰木監督は常に冷静で、選手の自主性を尊重します。いろんな考え方を教えていただきましたし、チャンスもいただきました。

― トップダウンか自主性か、人によっても相性があるでしょう。水尾さんは自分で決めて進むタイプだったのですね。

 高校でも横浜でも「お前は練習しない」ってすごくいわれてました。なのに大学やオリックスでは「よく練習するな」と言われたんですよ。横浜では与えられたメニューを全部こなすのが当たり前で、言われたことをやってないと「練習しない」。僕は自分の目的を決めて、それを達成するための練習をしていたのですが。今となっては、もうちょっとやり方があったかなとは思います。

― オリックス移籍1年目でやっとプロ1勝目を挙げ、1999年には55試合の登板を果たすなど活躍されました。

 仰木さんのおかげですね。でも2000年に戦力外通告を受けて、西武ライオンズへ移籍しました。東尾修監督に呼ばれた形です。この頃もずっと腰痛があり、さらに首もしびれるようになってきたため登板できず、結局2003年に退団しました。

アメリカの地に最後の望みを賭ける

― このとき35歳。ここで引退しなかったのはなぜですか?

 最後にアメリカでできることをすべてやって、それでダメだったらきっぱり辞めようと決めたんです。アナハイム・エンゼルスの入団テストを受けて合格したのですが、2年間頑張って、結局メジャーリーグに昇格できず、2006年2月に引退しました。

― アメリカの野球はいかがでしたか?

 ほんとに楽しかったです。日本の野球とは考え方がぜんぜん違う。たとえば、アメリカのピッチングコーチは、必要以上に教えません。求めれば当然教えてくれますが、それも自分の考え方だけを言うのではなく、ほかのコーチと相談してから指示する。それぐらい自分の言ったことに対して責任を持っています。日本はコーチだけでなく先輩とかOBとか、いろんな人がいろんなことを言ってくる。指令系統が多すぎて、困っている選手をたくさん見てきました。アメリカでは余計なお節介をしないので、選手がすごくやりやすいし、純粋に野球を楽しめるんですね。

― 水尾さんにはアメリカ流が合っていたんですね。

 1つのところにいたら、それが正しいことで、ほかにもやり方があることが分からない。ちょっと目線を変えればいいわけで、僕はほかの球団やアメリカに行って、いろんなやり方を体験できたのは良かったと思っています。

ケガをしたおかげで意識を変えられた

― でも、水尾さんの野球人生の一番の敵は、ケガだったのではないでしょうか。

 半分はリハビリやっている感じでしたね(笑)。最初にヒジを手術したのが高校2年生。その頃は、ピッチャーがメスを入れたらおしまいと言われていた時代。甲子園へ行くなら今手術しないといけない。だけど、手術をすれば5年しか持たないと言われました。甲子園に行きたい思いから手術を決断しましたが、そのときに思ったのは「だったら上手くやろう」と。普通にやって5年しか持たないなら、上手く身体をいたわりながらやれば、10年続けられるかもしれないと思ったんです。特に根拠もなかったんですけどね(笑)。

― プロに入ったときの体調はどうだったのですか?

 大学4年のとき、全日本遠征中にすごい肉離れを起こしてしまい、それがきっかけでヘルニアを患って、足の痺れが出はじめていました。ケガする前は、ほんと自分でもこれ以上ないくらいのボールを投げていたんですけど。

― ドラフト1位の陰では、大きな不安を抱えていたのですね。健康管理で注意していたことは?

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